父親の戦争体験、戦後体験(工事中)



8月は戦争を語る季節でもある。父親の戦争体験を書こうと思ったところ、もう少し広げて、その生涯を振り返れば、戦前、戦中、戦後を生きた庶民の姿やその時代の一部が垣間見えるのではないかと思った。父親は特に戦争については多くを語らなかったが、私が見聞きしたところを書いてみたいと思う。書き残したものは唯一原稿用紙7枚ほどの文章のみである。この文章についてはここに載せたいと思っている。一度に書けないと思うので順次書き足していきます。



1.熊本県阿蘇に生まれる


私の父親は大正9年(1920年)、熊本県阿蘇郡の農家の次男坊として生まれた。

阿蘇山の南側、外輪山の内側、阿蘇カルデラの中に位置する。現在の南阿蘇村である。私も何度か父親の生まれ故郷へ行っており、親戚の人たちも数多く生活している。自然が豊かで風光明媚、阿蘇山を長年かけて通過した水は、あちこちで天然の湧水となっている。実に美味しい飲み水であり、また生活用水として利用できる。「白水の名水」として有名である。阿蘇山の火口からは噴煙が上がり続けている。自然が豊かで美しいということは、裏を返せば微妙な自然のバランスの上に今の大地が形成されているということだ。一度噴火が起きれば甚大な被害を受ける。いや過去の大噴火と同等な噴火が起きれば九州自体が壊滅的な打撃を被る可能性すらある。

同時に父親が生まれた時代に思いを馳せれば、都会的文明から取り残された辺境の地であり、大自然と格闘しながら生きてきたことが容易に想像できる。電気が引かれたのは、敗戦後の昭和20年代前半だったようだ。それまでは「ランプ生活」であった。私が子供の頃に訪れた時(昭和30年代)は、風呂、トイレともに屋外にあり、風呂は五右衛門風呂で、吹きっさらしのところにあった。この五右衛門風呂に入るにはちょっとしたコツがある。木製の「すのこ」が浮いているのであるが、この「すのこ」を足で踏んで沈めながら入らなければならない。五右衛門風呂の底は下からまきで沸かしているため、相当な高温であり、素足で触れると大やけどをしてしまう。  



                                          阿蘇山観光地図                           

北側の外輪山から阿蘇5岳を望む

父親の実家は阿蘇5岳の向こう側の南阿蘇村方面になる

同じようなカルデラ内の田園風景が広がる



                 

                   

冬の阿蘇山

九州なので暖かいと思われるが、阿蘇の冬は寒く厳しい




                            

阿蘇中岳火口

有毒な火山ガスが噴き出している時は、火口近くは立ち入り禁止になる

火口近辺には急な噴火に備えてトーチカのようなコンクリート製の避難所が多く設置されている




                    

父親の実家近くにある寺坂水源

豊富な天然水が湧き出ており、飲み水始め生活用水として利用される

この水で作られる豆腐の味は絶品である

豊富な天然水が湧き出ており、飲み水始め生活用水として利用される

この水で作られる豆腐の味は絶品である



2.旧国鉄 高森線

 

この高森線にはちょっとした曰くがある。衆議院議員松野頼久(民主党→維新の会へ鞍替え)をご存知だと思う。民主党から維新に移る時、マスコミへの露出度が高かった。

じつはこの選挙区の出身である。

                             

                            松野頼久 衆議院議員

 

父親は松野頼三、総理府総務長官、労働大臣、防衛庁長官、農林大臣を歴任した。

祖父は松野鶴平、鉄道大臣、参議院議長などを歴任。また、実業家として菊池電気軌道(現・熊本電気鉄道)の社長も務めた。権謀術数に長けたことから「松のズル平」とあだ名された。この「松のズル平」が強引に引いたのがこの高森線である。高森線は大赤字線であったが、第三セクターとして生き残っている。

地元では僻地に鉄道を引くと「三代は国会議員として安泰」と噂されていた。ご多分に漏れず、その子松野頼三、その孫松野頼久は衆議院議員になっている。

松野頼久はその三代目にあたる。松野頼久の後継者がすんなり当選できるかどうか、見ものである。






.熊本の農家


 九州といえば、封建的、家父長制、男尊女卑の気質が強い土地柄である。長男が家督を継ぎ、その命令は絶対であり、誰も逆らうことはできない。長男と次男では雲泥の差がある。農家では子供は小学校に上がる歳になれば、立派な労働力である。ろくに学校には行けず、農作業を手伝わされていた。従って学歴は高等小学校のみである。しかし、父親の父親、すなわち私の祖父は本をよく読んでいたらしい。父親はその向かいに座って反対側から本を読むという特技を身につけたらしい。父親は本をよく読んでいたが、書き残したものはほとんどない。私は「貴重な体験をしたのだから、是非自分史を書き残してほしい」と何度も頼んだが、とうとう書かなかった。

 当時の農家の次男坊三男坊(次男坊以下)は日本軍に志願するケースが多かった。家督は長男が継ぐため、他に生きる道はなかったとも言える。ご多分に漏れず父親も志願兵となる。陸軍か海軍かの選択の時、思ったらしい。海軍はセーラー服を着なければならない。これが嫌で陸軍を志願したとのことである。


4.陸軍中野学校

 

 大日本帝国陸軍に入隊後、九州小倉へ配属されたようである。新入の兵隊がどのような軍隊教育を受けたかは不明である。そこでの当初の成績はほとんどビリに近かったようである。これにショックを受けて、一念発起頑張ったらしい。もともと活字に接することが好きだったこともあり、成績は上位まで上がったとのことである。そこで抜擢されて陸軍中野学校へ入学することになった(本人談)。

 

 以下陸軍中野学校について、市販の本やネット上の情報と父親から聞いたことをもとにまとめてみたい。陸軍中野学校はスパイ養成学校である。諜報、謀略、宣伝などの秘密戦に関する教育を行う機関であり、実態はあまり知られていない。この種の学校の構想は古くからあったらしいが、学校として第一期学生を迎え入れたのは、昭和14年(1939年)であった。現在の東京都中野区中野4丁目付近にあったため、中野学校の名が付いた。現在ではその痕跡は跡形もなく、なくなっている。入学する学生には階級があり「甲−乙−丙−丁−戊」と分類された。昔の学校の通信簿のランク、私たちの子供の頃の通信簿「5−4−3−2−1」の意味である。甲種、乙種は超エリート学生であるが、甲種、乙種の学生はいなかったのではないかと言われている。丙種は大学卒のエリート、丁種は高校卒、戊種はそれ以外。父親は戊種の第四期入学生であったことから「四戊」と略して呼んでいたようである。昭和18年の初めに卒業した。

 1974年にルバング島から帰国した小野田寛郎は静岡県の「陸軍中野学校二俣分校」の出身である。日本の敗色濃厚な昭和19年頃在籍し、主にゲリラ戦の教育を受け、当初の中野学校の教育からはだいぶ変わってきた時期のようである。

 

 校風はかなり自由であった。帝国軍人に求められる「愛国主義」「国粋主義」は求められず、天皇制に対する意見も自由であったらしい。軍服を着用せず、長髪に平服であった。一般会社員等になりすまして諜報活動を行うためである。父親は中野学校入学後、東京の親戚の家に挨拶に行ったらしい。平服で行ったため、「あいつは陸軍に入ったはずなのに、平服で来た。脱走してきたのではないか。」と親戚の人たちはずいぶん心配したらしい。スパイ教育を受けているとは親にも言えず、説明に苦慮したという話はたくさんあったらしい。

敵の言語である英語を始め、中国語、印度語等語学教育は徹底していた。考えてみたら、諜報部員が敵の言語だからやらないと言っていたのでは話にならない。学校の図書館にはマルクス・エンゲルス全集を始め、レーニン、毛沢東等、共産主義の書物も全部揃っており、自由に読むことができた。敵の思想を知ることも諜報部員には求められた。こんな書物は一般庶民が持っているというだけで、特高警察にしょっ引かれ、へたをすると虐殺されてしまう。戦時中にこのような書物に接することができたのは貴重な体験であったであろう。

 

「名誉や地位を求めず、日本の捨石となって朽ち果てること」を信条とした。名誉や地位、名前まで捨てる覚悟がいるため「名誉の戦死」は求められていなかったのではないか。

戦陣訓の「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」という意識は薄く、「捕虜になってでも生き延びろ。二重スパイになってでも、敵を撹乱させることを考えろ。」という意識が強かったようである。



参考 陸軍中野学校

 



5.父親が残した唯一の文章

 

 父親は本をよく読んでいたが、書き残したものはほとんどない。私は「貴重な体験をしたのだから、是非自分史を書き残してほしい」と何度も頼んだが、とうとう書かなかった。

中野学校校友会の会報に唯一下記の文章を残した。

 

 「ビルマ派遣、光機関付けを命ず」

 

 私がビルマ(現ミャンマー)派遣、光機関付けの命令を受けたのは昭和十八年十一月半ば、処は中国の浙江省諸曁(しょぎ)の都、即ち支那梅機関の諸曁分遣所であった。陸軍中野学校を卒業して約半年、憧れて久しかった中国に来て、何もかも珍しかった身に、それは青天の霹靂であった。しかしそうは言ってもビルマの光機関は戦局厳しき中にあって最後の日本軍の切り札とも言えるべき作戦と思い返し、くじけそうになる身を励ましたのである。幸いにその少し前に一人で居たところに先輩の鬼沢軍曹が来てくれたので申し送りなどのこともなく身一つで出発する。懐かしい諸曁に別れを告げて抗州梅機関に行く。そこには同期の向伍長、二期先輩の川村軍曹、三期の赤木軍曹と四人揃って南京の総軍司令部に申告に行き、支那総軍からビルマ転出の総ての人に会い挨拶を交わす。指揮官は総軍の小長谷大尉だった。南京から上海に向かい、上海陸軍部に勤務していた大曽根先輩、その他大勢の先輩同僚たちの世話になり、黄浦江に臨むマンションに宿泊し、上海の夜を楽しんだものだった。

 いよいよ上海を後にして、ビルマに向かうことになる。支那全軍よりビルマに転属を命ぜられたもの者、その数約四十名、上海より乗船して、行く先は香港−サイゴン(現べトマム、ホーチミン市)−バンコック、これより先は陸路泰緬鉄道により、ビルマのラングーン(現ヤンゴン)に至る経路である。当時、海上には米英軍の飛行機による危険が多かったが、幸いに無事ラングーンに到着したのは昭和十九年の一月中ば頃、騒然としていた光機関司令部に申告し、直ちに光機関ミートキーナー出張所勤務を命ぜられる。一緒に行くのは北支軍より転属してきた亀沢曹長と私の二人であった。赴任先の地理と経路を確認し、機関の置かれている現状を確認することも、同地には菊兵団が展開しているということしかわからない。

 直ちに出発準備、ラングーン−メイミヨー−マンダレー−サガインを経由してミートキーナー(現ミッチーナ)に至る経路を取る。昼は汽車も自動車も空襲を避けるため殆ど夜行である。メイミヨーの光機関支部に着き、申告してミートキーナーの状況を聞く。当時ラングーンに於いて分派機関長会議行われていた。そこへ藤村三近中尉(ミートキーナー機関長)も出席しており、もうすぐメイミヨーに来るから待機しているようにと言われたので、同地で待機する。ちょうどその時、磯田機関長とスバス・チャンドラー・ボース氏と同道、十五軍を訪れて作戦会議を行っていた。その夜メイミヨーの光機関にて会食を行ったので、私たちも同席する。威風堂々たるスバス・チャンドラー・ボース氏に初めてお目にかかる。望外の喜びであった。

 さていよいよミートキーナーへ出発である。藤村中尉、亀沢曹長、私の三人でメイミヨーを出発しマンダレーを経てイワラジ河を渡るとサガインである。ここからでないとインパールへ向かう道はない。我々はサガインを左に見て道を右にとりミートキーナーに向かう。ところが車中亀沢曹長が腹が痛い言い出し、仕方がないので兵站病院に入院させ、藤村中尉と二人で出発する。

 サガインを出発してから毎晩毎晩十時頃から敵機の爆音が一時二時ころまで続いていた。これはおかしいと思ったが、情報は何も入らずわからなかった。約一週間くらいでミートキーナーに着く。直ちに全員を集め、インパールへ出発を指示する。そして二、三日してからカーサ付近に降下した敵の空挺部隊が北上しつつあるという情報が入った。これに対処するため梅機関の参謀長大越大佐が来ていると聞いて、藤村中尉が挨拶に行ったところ、菊機関の貨物廠の兵をもって本日攻撃するから協力してくれとのこと。インパール転進の命を伝えたと思うがそれは定かでない。藤村中尉はそれを承諾して皆の居る処に帰ってくる。兵を指揮し、部落の正面は貨物廠の兵、右手の川の正面は光機関が受け持つと決まる。私はグルガ兵八名を指揮して出発する。約二時間位して部落の正面に激しい銃声がして、どうやら正面を突破されたらしい。次第に銃声が私共のいる方へ近づいてくる。立ち騒ぐグルガ兵を私の手元に集め、山の奥に退避して様子を見る。密林の奥から敵の本隊らしい駄馬を連れた敵の大部隊が通っていくのが見える。この時ほど機関銃が欲しいと思ったことはない。ようやく敵の部隊が通り過ぎたので、出発した部隊まで帰り着いて藤村中尉の消息を聞くが誰も知らぬとのこと。不吉な予感がする。その部隊を出て地形をよく調べてみると、どうも川の方を通って私の処に巡察に行ったらしいと判断して、残ったグルガ兵を連れて川の方から探しに行く。約百米行った処に藤村中尉の遺体を発見する。早速急造の担架を作り遺体を部落まで運ぶ。そして遺体の傷口及び所持品を検査する。所持していなければならない暗号書一冊がどうしても見つからない。腕時計一個、一冊の日記帳が見つかっただけである。そして遺体を詳細に調べてみると、致命傷は手榴弾の破片が鼻の横から後頭部に抜けて、大きく割れて痛ましい状態だった。菊機関の通信員を通じて藤村中尉の戦死と暗号書の紛失を光機関本部に連絡してもらう。そして遺体から小指一本を切り取り竹の筒に納めた。本来ならば藤村中尉と二人でミートキーナーの道を歩いていたのに不幸にも彼の遺骨を胸に抱き一人となって新戦場へ向かう。さていかなる運命が待っているか!率いるグルガ兵は新任の私を信頼して非常に従順で勇敢であった。指揮者のオスマン少尉は私と話が合い片言でいろいろ話し合った。ようやくサガインまで辿り着き、そこでインパールの敗戦を聞く。私一人ラングーンに報告に帰る為、グルガ兵四十四名を光機関に預ける。

 

 後記

 たまたま藤村中尉の兄さんが機関に来ていると聞いたが、私はマラリヤにかかり動けないので亀沢曹長に頼み遺骨と時計、日記帳を届けてもらった。

 

 藤村三近中尉について

 中尉は中野学校三丙(第三期生、丙種、すなわち大卒のエリートクラス)出身であり、伝聞ではあるが、現在の東京外語大印度語科出身であったらしい。



(以下工事中)

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