母の一家から語り継がれる東京大空襲
2010年5月 某「九条の会」機関誌へ投稿
私の母の一家が経験した東京大空襲の記録を記したいと思う。
私の母は昭和二年生まれの八十三歳、昭和二十年当時は十八歳だった。
戦時中の家族構成は、私から見て曾祖母、祖父母、母たち四人兄弟姉妹の七人であった。
一家は現在の門前仲町駅の近くに住んでいた。祖父は石川島造船所の溶接技師であった。
曾祖母は酒屋を営み、祖母は辰巳芸者の日本髪の髪結い、今で言う美容院を経営していた。
戦争が激しくなり、石川島造船所から祖父に鶴見への転勤が命じられた。
当時の門前仲町は路面電車(当時の市電)が縦横に走り、どこへ行くにも便利なところであった。
それに比べて当時の鶴見は相当な田舎であったと想像できる。
一家は泣きの涙で今までの生活を捨て、鶴見の社宅へ移り住んでいった。
これが幸いして、一家は東京大空襲から逃れられた。そのまま門前仲町にいたら一家全滅であった。
鶴見の社宅は総持寺の山の上にあり、空襲当日は東京の空が真っ赤に染まったのが良く見えた。
「もしかしたら以前住んでいたあたりかもしれないね。」と話したらしい。
門前仲町には近所の知り合いや同級生の友人が大勢住んでいたので安否を気遣い
二日後くらいに電車が動いてから、祖父、母、叔母の三人で行った。
東京駅から門前仲町へ歩いて向かった。
以前住んでいた家に行ったが、そこは一面の焼け野原、男女の区別もつかない真っ黒こげの焼死体の山。
まるでマネキンのような物体であった。中には焼けトタンがかぶせてあるものもあった。
家族を失ったのだろう、気が触れた人が彷徨う姿も見たらしい。
知り合いも同級生も、誰一人見つけることは出来なかった。
人も家も、凡そ生活というものが焼き尽くされた臭いは凄まじいらしい。
しばらく食事が出来なかった。戦争の悲惨さを映像で伝える事は出来る。
しかし臭いの悲惨さはなかなか伝えられない。それは体験者の話を聞いて想像するしかない。