「創造」テーマ

 

地球は丸い。全速力で走って最先端になったつもりが、最後尾だったりして。

でも、我々は一番最初に深淵の闇の中から日の出を見たかっただけなんだ。

 

テーマ解析

 

育励会は学生会館の設立と生活協同組合の創設による学生の自治権の確立のために活動してきました。当時のOB諸君とは話が合わなかったのですが、学生委員会としての誇りを持って、学生委員会独自の「創造的文化」の創設を模索し続けていました。

 1970年の「安保闘争」時代に、育励会文化活動の一環として、題名は覚えていないのですが広島原爆被害等の映画を上映しました。反戦平和・反核・「被曝者」に対する差別と苦しみ・「ヒロシマ」への差別がテーマとなっており、「被曝者」に対する「区別」なのか「差別」なのかなんてことを論議した記憶があります。まだまだ未熟でした。その後反差別の活動や技術論への模索が行われてきました。そして更に不当処分攻撃・大学当局の不正や社会の矛盾と闘い、安保→反帝→革命と見渡せる時代でした。

 文団連の八ヶ岳の合宿に招待されて(育励会から文化助成金が出ていたから)、文化系のクラブの部長たちを集めて、ハワイアン同好会、カントリー部、フォークソング部などに「侵略されて居住地に押し込められているアメリカ原住民の苦しみや差別の実態について考えなければだめだ。そういう問題を考えながら大学のクラブ活動をすべきだ」なんて偉そうに言っていた時もありました。

 「技術論」についても、大学院生相手に「技術者は住民が反対している“成田空港建設(三里塚)・ダム建設・原発建設等について、責任を持って考えなければならないだろう。」「技術の進歩が合理化を生み、労働者へ労働強化を強いるような技術はいらない」などと延々と言っていた。

 社会の不正や矛盾が一歩づつ解消されていくような自己満足の中で・・・・・・・

しかし、学生運動は徐々に敗北し、連合赤軍事件・新左翼の内ゲバ等で運動は衰退の一途をたどることになった。旧MITの運動も全学ストライキの挫折と大量処分攻撃等によりそれ以降苦難の道をたどる。

 あれから30年〜40年の年月を経て、あの青春時代の情熱と正義感は日々の生活と自分を取り巻く社会情勢の変化の中で風化してしまったのだろうか?今の生活を否定する必要はない。現在の生活の中で、あの青春時代を懐かしみ振り返るとき、総括なんかを語るのではなく、だんだん薄れていくあの時代の記憶をたどりながら、それからの自分自身をの生活を含め一つ一つを査証してみることが還暦を迎える(迎えた)

今、必要なのかなと思われる。一人で追憶に浸るのもいいけれど、共に時代を共有してきた仲間と共に語ることが出来るなら、それは素晴らしいことだと思う。

 あの運動で何を得たのか?何を得られなかったのか?皆で話してみたい・聞いてみたい。自分の人生に納得したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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