1 仏像コレクション 造反有 理                               

 

 仏門に帰依し、日々仏の深い慈悲にすがって生きている訳ではないのですが、ちょっとしたきっかけで

仏像・仏教美術に興味を持つようになりました。

                                                                  

きっかけは、たまたま中国障害者芸術団の公演に行ったとき、「千手観音」の演技を見た時でした。         

20人が縦に並んで、40本の手でさまざなな「千手観音」の動きを表現するものでしたが美しいと思いました。先頭にいた少女が美形だったこともありましたが・・・・。 

 この少女や少年たちが聴覚障害を持っていることを聞き、音楽に合わせて演技をしているわけではなく、指揮者の手の指揮で揃って演技をしていることに感激しました。

 まるで女神のような美しさ。あれ?観音様は男だな。鎌倉の長谷観音はヒゲが生えていたぞ!

 その後、上野の森美術館で行われていた「チベット展」を見に行きました。会場の外にはチベット人が中国からの独立と国宝の略奪に抗議する行動をしていました。でも、鑑賞することにしました。

 チベット仏教については何も知らないのですが、さすがチベットポタラ宮の至宝、美しさと迫力に感動しました。これほしい!と思ったのですが・・・・チベット人民の信仰と誇りであるポタラ宮の宝物は日本人でもなく中国人でもないチベット人民が所有すべきでしょう。と思いつつ、チベット・インド系の仏像に興味がわいてきました。それも女神像が美しい・・・・・・

 美の女神ラクシュミー・芸術と学問の女神サラスバティー・ターラー等ヒンズー教の女神様がいるそうで、皆さん仏教に改宗なさったそうで日本ではラクシュミーは吉祥天(吉祥寺)、サラスバティーは弁天様(七福神の弁財天)ターラーは多羅菩薩として仏教で信仰されています。

ラクシュミー・サラスバティーの像が欲しかったんですけどほとんど手に入らない状態でした。あっても高額な美術品だったり、手からお金が湧き出ているような土産物ばかりでした。

 それでも、手が届く程度の物を集めてみました。

 

      

    

 

 女神さまだけでなく、いろいろな仏様も混じっていますが、これからも少しづつ収集していきたいと思っています。ちょっと場違いなお不動様ですが、これは不動巡礼にまわった時にそろえたものです。(これは、別の機会があったら語らせていただきたいと思っています。)

 でも、仏教って面白いですね。インド→チベット→中国→日本と伝来されてきたのですが、その変遷は興味のあるものですね。元々仏教とは世界で唯一「神様」のいない宗教だったのではなかったでしょう。

キリスト教もユダヤ教もイスラム教も一神信仰で同じ神様ですよね。日本では八百万の神とか言って乃木さんでも東郷さんでも吉田松陰さんでもみな神様になれるんだよね。最近では鳩山さんも神様らしいけど・・・

インドではそんなものではなく、3億の神様がいるらしいです。

 元々原始仏教では偶像信仰が禁じられていて、お釈迦様をあらわすときは足の裏だったり車輪のマークだったりしていたらしいです。仏教で悟りをひらくとは一種の哲学に似たものだったと考えています。

お釈迦様はヒンズー教やバラモン教の差別的な階層社会に反旗を翻した哲学者だったような気がします。

なんて言ってると「オーム」に近くなっちゃいますかね?でも違います。

 仏教の変遷の中で、輪廻・前世・天国・地獄・奇跡等の作り話が付け加わり、お寺に行って小銭を入れると願い事が叶うなんて本気で思っている人が出てきちゃっているんですよ。仏様は小銭なんか欲しがらないし願い事を叶える気もないんですよ。小銭が欲しいのはお寺さんじゃないのかな?

 ♫ 戒名も 百万単位で 一字増え ♫ ちょっと字余り 

 お経もインド→チベット→中国と伝わってきて変遷をしてきているでしょうが、「般若心経」を法事の度に唱えさせられてきました。なんだか意味もわからないままにとなえて、足がしびれてしまうだけなのに。うちの子供は3人ともお寺の幼稚園に通っていたので「般若心経」を空で言えるようになっていました。意味なんかわからないのにね。私は歳のせいと記憶力の無さで覚えることは到底無理と思っていますが。

 でも、書いてあることの意味は「いろいろあるけどこの呪文を唱えなさい」と言うことのようです。

カテ カテ パラカテ パラサンガテ ボディソハ(得意のサンスクリプト語ですけど)

訳すと「行くぞ 行くぞ 彼岸(あの世)に行くぞ みんなで行くぞ 怖くはないぞ」という意味のようです。これを法事でみんなで声を揃えて唱えると異様な雰囲気になりますよね。

 要するに、「人間だれでも生まれてきて死んでゆく、その過程を大切にしろ!」と言っているように私には聞こえます。

 定年を迎えて、自由な時間ができたと言うより暇を持て余しているとこんなことしか考えていないのかな?                           

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                    

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