田作の歯ぎしり4 私にとっての七不思議その1
1 人間どうして死ななければならないのだろう?
私のように健康に配慮して無駄な運動はぜずに体に脂肪を貯めて、タバコもお酒も甘いものもちょっと控えめにしているのに、やはり寿命が来てしまうと死んでしまう。何故だろう?
死んでしまうというよりは死ななければならないルールになっているようですね。地上に生を受けて、自然にも社会にもちょっとしか迷惑なんか掛けていないのに。
さだまさしの「防人の詩」の気分です。
でも、よく考えると人間のこと・生命のこと・宇宙のことなどなんにも解ってはいないのです。宗教は疑り深い私を説得できないし、科学も日々進歩していろいろな事が解明されてきていますが、解ってきているのは「部分」の話だけのようです。生まれて成長し子孫を残し死んで往く、この単調な繰り返しが何十億年も続いている。なぜなんだろう?生物学や遺伝子工学・進化論・量子論・宇宙学といろいろ研究され少しづつ理解されてきているが、解れば解る程「真理」は蜃気楼のように逃げていってしまう。
私たちの体は60兆個の細胞で出来ていて、その細胞たちを脳と神経によりコントロールして生命活動をしていると言うのだけれど、意識の中ではほとんど関知しない世界で細胞たちが働いている。先日、理科学研究所作成の「セントラルドグマ」(細胞核内でRNAがDNAの情報を元にタンパク質を作る)のビデオを見ました。たった一つの細胞核の中で行われている日常的な作業なのですが、そのシステム化された作業の正確さと緻密さに驚きを感じましたが、同時にこの一連の作業には何かの「意思」が感じられました。
よくDNAがソフトウェアでRNAがハードウェアなどと例えられますが、いったい誰が操作をしているのでしょうか?脳ではそこまで管理をしてはいません。たった一個の受精卵がDNA情報に基づき分裂して生命体を作成してくるけれども、まだ、脳が活動する前の話です。偶然出来たDNAに書かれた情報により目的別に60兆個もの細胞が作られ、化学反応としての作業が黙々と続けられている。DNAは細胞を作るだけではなく「本能」と言うプログラムにより生活そのものを管理し、子孫を残し新た遺伝子を伝えほんのちょっとの進化の可能性を残して死んでゆく。細胞をいくら分解しても細胞の「意思」を司るものは見つかっていないし、偶然のタンパク質の結合によりこの様な生命活動が出来たとは思えない。
いったい我々は・生命は何者なんだ!
オックスフォード大学のリチャード・ドーキンズ博士は、「生命とは遺伝子の乗り物である」と言っていますが、主人公である遺伝子が「自分がこの宇宙に永遠に存在すること」を目的として生命を利用しているかもしれません。まだ、なんにもわからない時点なのですから。
前に見に行った上野の美術館で出会ったポール・ゴーギャンの絵画「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」を見ながら考えています。
生命には二通りの種類があって、死ぬ生命と死なない生命があるそうです。
死なない生命とは“大腸菌”のような「一倍体生物」(1組の遺伝子)と呼ばれる細胞分裂により増殖する生命体です。「一倍体生物」は無性生殖で、増殖した生命体の遺伝子は元の生命体の遺伝子と同じものが出来ます。元の生命体は寿命を司る「テロメア」(分裂回数制御装置)がDNAにないため、環境の激変や事故死以外では生命が断たれることはない。永遠の命です。
一方、死ぬ生命とは、雌雄の性の仕組みを持つ「二倍体生物」(2組の遺伝子)で、増殖した生命体の遺伝子は、雌雄の遺伝子の合成であり元の遺伝子とは違うものになる。このことにより多種多様な遺伝子が作られ、環境に適した生命体が出現する可能性が出てきます。ところが、先ほどの「テロメア」がDNAにセットされ細胞の分裂回数をカウントします。破損した細胞・DNAを新たな細胞分裂により置き換えられるのですが、これかカウントされていて指定回数が来るとストップします。これが「寿命」です。
DNAは子孫に環境に適合できる可能性を持つ遺伝子を残し、元の個体には「死」を与えているのです。「老い」や「病」・「死」は全てがDNAのプログラムにより決められているのです。全ては環境に適合できる遺伝子を残すためのプログラムであり、遺伝子中心のシステムになっています。
人間中心の世界のように思っていたけれど、実際は人間なんてちっぽけな存在なのかもしれない。
たかだか500万年前に出来た人間が、文明を持つことができるようになってたかだか1万年で、50億年も100億年も前から進化している宇宙のシステムを理解することはできないのかもしれない。 「人生 夢か現(うつつ)か 現(うつつ)か夢か」